タイでカリビアン

バンコク移住生活4年目からの記録

祖父の形見

実家は東京にある。元々は家族5人で暮らしていたが、現在は母一人で住んでいる。二階建ての一軒家に母一人でいても仕方ないとのことで、実家を売ってさいたまの姉夫婦の近くのマンションに引っ越す事になった。先日4日間の弾丸で自分の荷物を仕分けに帰った。自分の想い出の品々は多くは処分になったが、友人が引き取りに来てくれたので楽器の一部やレコード、CD,DVDなど一部は友人に託す事ができた。

片付けが一段楽した時に、母から父の形見をどうしようかと相談を受けた。正確には祖母が持っていた祖父の形見であり、それを父が受け継ぎ、父が他界した後に母が受け継いだ物らしい。そんな物があったとは全く知らなかったが、どんなものか見せてもらって仰天した。とんでもない貴重な物が小さめのダンボール2箱に入っていた。
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このような箱が2つあった。


1箱は昔のアルバムで、もう1箱は戦前に中支に居た祖父と東京にいた祖母との間でやりとりされた手紙などがたくさん入っていた。じっくり見る時間が無かったのが残念だ。そして母が祖父の形見だと出してきたのがこの軍隊手帳だった。
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大きさは生徒手帳ほど。


裏面には名前が書いてある。
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麻製だろうか?かなりしっかりしている。そして約80年以上前のものとは到底思えないほど保存状況が良い。


中を開けてみる。
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足袋のこはぜのようになっており、中を開けると勅諭が書いてあった。その他にも色々な事が書いてあり、祖父の直筆のメモや新聞の切り抜き、或いは演習用の地図のようなものまできれいに保存されていた。


一番後ろのポケットの中を見てみると、何やら切符の様なものが入っていた。
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これは当時の支那の切符だろう。中華民国とある。自分も物に執着する性格であり、今回の片付けも大変な苦労をした訳だが、どうやらこの血は先祖譲りであったようだ。こうして自分の記録としてブログを書いているのも、祖父の記録を残す性質を受け継いだのだろう。


続いてアルバムを開いてみた。
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祖父は父が大学4年の時に他界した。父と母は既に出会ってはいたが、母ですら祖父には会っていないという。自分も家にあった写真1枚しか見た事がなかったが、こうして若かりし日の祖父の写真が残されていた事に非常に感銘を受けた。


このアルバムは凄い。
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当時の朝鮮軍司令官閣下の写真が写っていた。映画や再現映像ではない、本物の大日本帝国軍人の写真だ。


真ん中の詰襟と左のふんどしが祖父。
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入営前の面影とある。目は自分とは似ていないが、骨格は似ていると思う。


軍隊手帳とこのアルバムは形見分けではないが、万が一の為に自分が預かる事にしてバンコクまで持って帰って来た。
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貴重な写真は続く。これは朝鮮人の村だろうか?


これは帝国陸軍(祖父は陸軍所属だったらしい)軍人の水泳訓練と思われる。
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何とも逞しい、筋骨隆々とした帝国軍人。リアル男塾だ!


戦地の写真も多くあった。
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油坂突撃の後。旭日旗と銃剣。


おそらくは演習と思われるが、とてもリアルな写真が続く。
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祖父はどこかにいるのだろうか。


個人的なお気に入りはこの1枚。
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バックに九五式一型練習機、通称赤とんぼらしきが飛んでいる。旭日旗に銃剣。大日本帝国陸軍の生の姿がある。そして背景の景色がまた素晴らしい。本当に80年も前の写真とは思えない。


実家に残してきたアルバムから何枚か写真を撮ってきた。
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中列一番右のメガネをかけているのが祖父。


これは当時の中国国内の写真だろう。
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帝国軍人と中国人らしきが仲良さそうに煙草を吸っている。


今まで祖父についてはほとんど何も知らなかったが、母から祖父の事を少し教えてもらった。今まで全く意識した事がなかった自分の先祖とこの年齢になって向かい合うと言うのは、とても奇妙だが貴重な経験となった。
そして、形見でありながら、家宝が出来た。実は祖父の直筆の家系図まで出てきて、自分の5代前の先祖の事まで知る事ができた事もとても嬉しい事だった。
しかし、これらの品々はただの形見というよりは貴重な歴史的資料なのでは無いか?いずれ自分が歳を取ったら靖国神社にでも寄付しようか。